武田勝頼土佐の会ホームページを訪れた記念や、話題作りに♪ 何でもひと言書き込んで下さい。良いアイデアなどの投稿もお待ちしております!

武田勝頼土佐の会【掲示板】

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2012/05/16 (Wed) 20:55:18

この投稿は管理者の承認待ちです

無題 - 源 晴 朝臣

2012/05/13 (Sun) 21:31:42

                                                                                                             新府のすぐ南にある神社の紹介です。修築され保存されてる感謝は本物の祟りと感じることがあるのでしょう。                          この文章を見て不思議と感じられる方も多いでしょうね。                            「鎌倉八幡宮を勧請、甘利八幡宮として祀り、代々これを氏神として尊崇したと言われる。」
と、いう面白い文章です。以前、サンケイ新聞の切り抜きを紹介したときは、忠頼朝臣の霊廟であり神体の鎌倉八幡宮と横内要氏の論説記事にてございました。・・・                                                                                                                      http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/yamanasi/nirasaki/hatiman/hatiman.html                 
ご神体を調べていましたら僧形八幡神もなんと!袈裟に剣花菱、頭上には吾等が御旗

信義公が孫の藤原宗家中原家を継いだ中原朝家の兄弟の飯室禅師かどうかは分からないがその時代の絵ですよね・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E

勝頼公逃避行に利根川が果たした役割大では・・・。 こうちゃん

2012/05/13 (Sun) 20:23:08

川越の武田氏 鍛冶町法善寺伝(今の幸町)に「天文六年川越合戦云々。僧源能、俗姓は武田氏の一族一条右衛門太夫信龍が叔父なり」と。同寺鐘銘に「為武田家追福者也。武州河肥自然山法善寺。維時天文十九庚戌初冬釈源能」とあり。また、岩崎家譜に「岩崎七郎右衛門は、甲州より真玄公之御子一人御連被成候処、御出家に成給て真行寺と仕給う也」と。風土記稿寺井宿真行寺(今の宮元町)条に「開基真行尼は武田信玄の妹なり、武田勝頼没落の後、若山某・岩崎某の二人に懐抱せられて郡内上吉田村に姑く住し、夫より今の所へ来り一寺を建立し、己が名をもって寺号とせし由、卒年は伝へず。彼若山・岩崎の子孫、今横見郡荒子村に残れりと云。当寺第二世は武田勝頼が妾腹の男子なりしと伝ふ」と見ゆ。当寺住職は代々武田氏を称す。原条参照。


天正11年(1583)6月17日 矢沢綱頼宛真田昌幸宛行状
 昌幸が綱頼に沼田在城を命じ、城領として200貫文の地を与えるとしたもの。
長野市松代
矢沢頼忠氏蔵 定
沼田在城申し付け候の間、城領として弐百貫文これを進め候。先づ臼根((上野))の地百貫文相渡し候、其(そ)の外の所は糺明せしめ、急度(きつと)これを進むべく候。恐々謹言。
天正十一年癸未 安房守
 六月十七日 昌幸(花押)
 矢沢薩磨(摩)守殿
   (綱頼)
南牧村文化財一覧より
天正10年、市川別当次郎直方が甲斐国より大仁田へ転居した折に熊野神社を祀り、その際植樹した杉の1本。樹齢約400年

埼玉県深谷市横瀬にある華蔵寺。華蔵寺には大日堂の建立時のものと推測される1583(天正11)年の棟札があるが、それには「上野国新田庄勢多郡横瀬郷」と記されている。華蔵寺は、1194(建久5)年、新田義兼(にったよしかね)の開基で、その菩提寺。新田庄とは、上野国新田郡(群馬県太田市)周辺にあった荘園の名称だから、この棟札からは天正年間には横瀬が上州(現在の群馬県)だったことがわかる。

前述(多くのPHからの抜粋ですみませんが)
これらの、一連の地区は利根川水運ということから、すべてつながってきている地区であることが私の中では理解できております。と同時に、すべての地区で武田勝頼公を受け入れることができている条件が、整っていたと判断できる気がいたします。
結果として
いつでも利根川水系で房総武田を頼ることができたことと結論つけたい自分がおります。この後は、里見水軍、武田水軍、太平洋側の各地の水運(海賊衆=各大名召し抱えの水軍?)を考えたいと思います。そうすることにより、3月3日早朝、新府城を退避、影武者様たちは陽動作戦のために、岩殿山に向かう、勝頼公達は、武田滅亡時に上州下仁田一帯土屋高久に匿われ、南牧村の市川家に居住したと云う伝承がある、とのことから房総武田氏を頼り、水運の関係で土佐まで逃避できたと推論でき、天正11年には土佐へとの、歴史ロマンがある一定の結論が導き出されるのではないかと、心ひそかに楽しみながら、今後は水運関係を考えてみたいと思っております。よろしくご示唆いただけますようお願いいたします。

前回は、松姫様と同一の逃避ルートを、今回は・・・。 こうちゃん

2012/03/31 (Sat) 05:58:07

前回は、逃避月日をずらして、松姫様と八王子あたりまでは同一のルートを推測してみましたが、今回は、新府城自落後、すぐに勝頼様、北条婦人、信勝様の三人に絞っての逃避行ルートを考えてみたいと思います。
推測①
理桂尼記によると、1582年3月2日の晩方、大善寺到着、その晩は遅くまで理桂尼様と話し込んだとの記述があるようですが、明治40年発行「史学雑誌(第18編第2号)理桂尼記-名武田勝頼滅亡記解題」という辻善之助氏が書かれた研究論文により、理桂尼記は、後世に誰かが理桂尼様の名前を仮託して書いた、偽作ではないのか、このような記述を
目にしたときに、推測しているように明らかに勝頼公があたかも、新府から大善寺まで来ていることを確かなものにしようとしての思惑が働いての記述ではないのかと、考えざるを得ませんでした。だとしたら、勝頼公様たちを存命させる最善の方策を考えたとしたら、
ここからが推測でしかないのですが、何通りか考えられる逃避行のルートで、
御旗楯無の鎧を脱いだのではなかろうかと考えられる、裂石山雲峰寺からの逃避ルートを推測してみたいと思います。
新府城自落または、それ以前(1958年3月2日当日)自落は、小山田様を中心にして家来衆だけで実施したとしての推測です。
・勝頼様たちは、裂石山雲峰寺へ、その後(地名は現在の地名で記述です)-丹波山村の西端-塩山市上萩原-大菩薩嶺-大菩薩峠-小菅村(国道?508号線あたり)-小菅村吉野(国道?18号線)-鶴峠-上野原市飯尾・西原・棡原(国道?18号線から33号線へそして522号線へ)-相模原市緑区佐野川-檜原村-和田峠(国道?521号線)-八王子市恩方地区-八王子市滝山城-秩父往還-拝島-秩父-小賀野町-長野県上野村-十石峠-佐久平-小諸-上田-長野善光寺-黒姫-妙高-
春日山城。
このようなルートを推測の中で考えてみました。
このルート上に何らかの痕跡があるとうれしいのですが・・。
さらに、現在のルートで板橋から桶川約130キロ、桶川から長野まで約90キロ、長野から直江津まで約70キロ、総距離約290キロくらいです。すると山川を進んだとしても単純に1日40キロペースで考えると7日から8日あると十分に上杉様の春日山城へ入れるのではないかと推測してしまうのですが。
ただ、新府城落城後から6月2日(本能寺の変)を経て、しばらくの間この辺り一帯は、統治者不在の状態が続いたような歴史があるようなので、その辺りのことは推測の上でも、意識していかないことには、逃避行のルートが完全な推測になってしまうのではないかと、自省しながら推測してみたいと考えてみたいと思います。よろしくご指導お願い申し上げます。

Re: 前回は、松姫様と同一の逃避ルートを、今回は・・・。 - 源 晴 朝臣

2012/05/12 (Sat) 22:20:45

私は水軍の基地の久能山から船で海上を戦をしながら進軍し、偶然にも織田、豊臣水軍を全滅させたのだと思います。後の徳川の人事異動を見てもそれが自然だとおもいます。当時の八幡船でこれは足利将軍家からの流れを汲むものであり世界でも屈指の秘密船団でした。それは清和源氏の準構成の海上豪族であり、足利から徳川に代わる手配がそこで実行され、勝頼公の後の処遇は信恒、信景らとそこから土佐の水路にて話し合われたのだとおもいますが。ただ世良田家康がいつ入れ替わったのかは想像もつきません。三方が原の戦いの絵も元康にいてしまうのは無理があると思います。
船の話になりますが、江戸時代には関八州に新府から水路で行けたらしいですよ。入植地には大崎玄蕃も新府あたりから水路で行ってたらしいです。抜け道は水路だったのです。水路のお話はU市議会議長でH神社宮司のM氏から直接お聞きしたお話でございます。

武田家系図から 善兵衛 URL

2012/05/08 (Tue) 18:25:21

武田家系図の不思議。

信玄の葬られた所は恵林寺では無く新善光寺で神儀と書かれています。

信玄の嫡男武田義信について。
正史・甲陽軍監では永禄10年10月19日自害30才ですが。
土佐の系図は永禄6年癸亥3月5日自害26才です。
名前は、武田太郎、(始め信行)から義信に( )書きは土佐の系図にだけ出てくる。

次男の竜芳、戒名は長元院殿釈潭竜芳大居士。
土佐では(龍宝)快?言 栄泉院殿勝基海香大居士です。

信玄の三男信之は、信仲葛山三郎は大崎に下向大崎長門守信安と云う等々です。

歴史はどれが正しいか誰にも絶対は言えないのです。
土佐では此の武田家系図が拠り所で、以外のことは想像の域を超えないと思います。

正史と余りにも乖離したこの系図の信憑性が問われて居ると思います。逃避行もHPブログで書いたことしか分からず、系図からしか今は語れません。

不思議は色々有りますが、2人の信武(10代目・13代目)についても近くブログで発表します。




Re: 武田家系図から - 源 晴 朝臣

2012/05/09 (Wed) 18:45:53

伝通院でみつけました。

ショッキングにも岡林さん、我等といっしょ。

お話の中の武田信武が10代と13代に居たとは摩訶不思議なお名前にございますね。信義の子孫で武田であると、そこそもの幼名として授けられたとは考えられませんでしょうか?

Re: 武田家系図から - 源 晴 朝臣

2012/05/12 (Sat) 18:59:56

生前の黒沢監督の進言からしますと信玄が一人であったかは大きな疑問です。信義、忠頼、信光、有義などの子孫達、武田当主、惣領家、宗家とはその血脈も近く同じく一族の安泰安堵状は江戸時代まで続きます。ですから善光寺に葬られた信玄がいても不思議ではないですし。わたしも善光寺では計らいがございました。反乱者になれば村八分。これからもつつましく受け止めるべきでしょう。

勝頼公土佐逃避行のルートを再考するようです? こうちゃん

2012/05/07 (Mon) 11:23:07

武田信勝の子供
 武田信義 (?~1615年)
 武田信勝の子と伝わる。武田信勝は天正十年、武田滅亡時に上州下仁田一帯土屋高久に匿われ、南牧村の市川家に居住したと云う伝承がある。信勝は妻を娶り、子の信義が生まれた。信義は後に大坂の陣で討死。子孫は市川氏と名乗り、下仁田一帯に居住したと云う。武田家の家臣たちのHPから引用ですが・・・。また、貴会のブログにも同様の記事があり読ませていただきました。そこで、考えることがにわかに考え直すことが出てきました。
・土屋高久に匿われ、市川家に居住したとしたら、それはいつから、いつまでなのでしょうか。
仮に、天正10年3月3日以降3か月以上1年未満位として考えた時に、
勝頼公達は、本能寺の変、徳川氏と北条氏の戦い(天正壬午の乱・神流川の戦い)等を知っていたのではないかと考えたいが、いかがでしょうか。
そうすると、その後の徳川家康公の武田遺臣たちの懐柔策を考えた時に、私が考えていた難儀なルートで土佐に行ったのだろうか、もっと違う方法で土佐に落ち延びたのではないか、このように考えたい自分がおります。なお、武田水軍も徳川水軍(徳川家お抱えに召されたようですが)、このことからも再考の余地があるように考えたいと思います。前回の投稿と今回の投稿で、ご理解いただきたく、ご示唆をいただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

Re: 勝頼公土佐逃避行のルートを再考するようです? - 源 晴 朝臣

2012/05/09 (Wed) 20:18:11

家康に敷かれし剣花菱

ご安心めされ、晴光、信恒にかわって武田家臣、末代までも同朋。

裏切り者以外は、徳川の世の世になってもおんなじにござる。

淑徳学園前 - 源 晴 朝臣

2012/05/09 (Wed) 18:44:01

ありました。小石川の於大さまの遺品の敷物はうちと同じ剣花菱の岡林さんちの紋が中心にありました。

是非、行ったら見ておくべきですね。遺芳、以後剣花菱と、当家、うちの内庁協会系図には記載ありましたので、これは深いですねえ・・・



勝頼公逃避行に何らかのかかわりが・・・。 こうちゃん

2012/05/09 (Wed) 15:55:45

武田家系図のご示唆ありがとうございます。
これから記すことで、何か糸がつながっている様な気がしてなりません。うまく整理できておりませんがご示唆をいただけましたら大変ありがたいことです。
勝頼公 1582年田野で逝去、37歳(とりあえず史実)     1609年8月25日64歳で逝去(土佐の伝承)
    
信勝公 1582年田野で逝去、16歳(とりあえず史実)
    1615年大阪夏の陣で討ち死に(市川家家系図)
    33歳で逝去
信義公 ?~1615年
    武田信勝の子と伝わる。武田信勝は天正十年、武田    滅亡時に上州下仁田一帯土屋高久に匿われ、南牧村    の市川家に居住したと云う伝承がある。信勝は妻を    娶り、子の信義が生まれた。信義は後に大坂の陣で    討死。子孫は市川氏と名乗り、下仁田一帯に居住し    たと云う。武田家の家臣たちのHPから引用です     が・・・。
初鹿野伝右衛門信昌(加藤信邦6男、加藤弥五郎が継ぐ?)
    1544年生 
    1624年逝去81年の生涯・大宮における「大     崎」「玄蕃」とのかかわり
秋山伯耆守信藤
    越谷市役所のホームページにあった、照蓮院の「越    谷市指定文化財・千徳丸供養塔」のこと、また・瓦    曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守    信藤であることを伝えています。天正10年(158    2年)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武    田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜    居しました。
市川十郎左衛門昌永
    娘は徳川家康の側室、お竹の方、生年?~寛永14    年(1637年)詳細不明、甲斐の出身。父は穴山梅    雪といわれている。ほかにも武田家家臣の秋山虎     康、さらには武田信玄の娘とも言われているが明ら    かではない。
    天正年中に家康に召され、天正8年(1580年)浜    松城内で3女振姫を生んだといわれ(下山殿=於都    摩の方が実母ともいわれる)寛永14年(1637    年)に江戸で逝去、於都摩の方は穴山梅雪が父であ    るようだ。
香具姫様
    寛文13年(1673年)8月6日95歳で逝去
    遡り1578年ころの誕生か
    磐城平藩主内藤帯刀の側室となる。1619年武田    信興をもうけたとのこと。
柳沢吉保1658年生誕
    1672年、信玄公百周忌法要出席
    1688年、上総国佐貫藩主
    1694年、武蔵川越藩主
    1714年逝去 

何を伝えたいかと申しますと、
徳川家康公が、いかに武田信玄公並びにゆかりの方たちとのかかわりが深かったかということと、
香具姫様の存在と、柳沢公の存在とが、勝頼公=玄蕃様ということのつながりを証明しているようでしかたがありません。勝頼公が、田野で討死にではなく土佐に逃避したり、その後のが活躍の後ろにお二方(香具姫様・柳沢様)の支えや武田家遺臣が、多分に支えあっていたという推測は、妄想でしかないのでしょうか。よろしくお願いいたします。




利根川水系の逃避行・・・ こうちゃん

2012/05/07 (Mon) 08:43:46

勝頼公達の逃避行が。どのようになっていたのか、
南房総市富士山智蔵寺のご位牌、
越谷市役所のホームページにあった、照蓮院の「越谷市指定文化財・千徳丸供養塔」のこと、また・瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しました。
大宮の初鹿野伝衛門の墓と大崎、玄蕃という地名?固有名詞がある。
天正10年以降、上州下仁田一帯の土屋高久に匿われ、南牧村の市川家に居住したとの伝承がある。このことから
上州下仁田、川越、大宮、南房総市と勝頼公が逃避するためのルートの一端が、少し見え出したような気がいたします。
推測
もし、上州下仁田(もしかしたら、利根郡大谷地区の近くと見立てて、少し無理があるかな?)からなら、いつでも利根川水系で房総武田を頼ることができる地形であったと推測できるのですが・・・。
さらに大胆な推測ですが
上州下仁田において、どれくらいの月日、土屋高久様のところに匿われていたのか定かではありませんが・・・3か月後の本能寺の変の知らせを、勝頼公達がここの地で耳にしていたとすれば、さらにその後の徳川家康公達の武田家への対応を情報として耳目にしているとしたならば、逃避行の行方が、まったく変わってくる気がいたします。
貴会のブログにおいても逃避行ルートは?であるとのことですが、基本は富士川、駿河湾経由だと思いますが・・これについても個人的には、今回の発見で見直す余地が出てきた気がするのですが・・・。それは、伊勢湾海運と水軍について考えるというHPを見て、少し疑問がわいてきました。今後は、そのあたりのことも考えてみたいと思います。よろしくご示唆いただけますようお願いいたします。


無題 善兵衛 URL

2012/04/26 (Thu) 13:30:08

総会の案内
会員・関係者
 各  位 様
                  高知県吾川郡吾川村大崎340-1
武田勝頼土佐の会
会長 岡林 照壽

先の東日本大地震災害から一年が過ぎました。被災されました関係者各位には早期復興が成される事を祈っております。
 さて、私たちが取り組んで参りました「武田勝頼を地域の観光資源」にするための幾つかの取り組みも、イベントを通して浸透してきたと思っております。   
志国高知龍馬ふるさと博推進協議会会長 尾崎正直氏より、武田の里 大崎の陣“まいさるく“の認定証を頂き、県のパンフレット等に掲載されました。
又ガイドブック再々製本に多大の協賛金を頂きました皆様にお礼申し上げます。
平成24年度の総会を下記の要領で実施致します。本年度は武田の里全国サミットを計画しています。多くの会員の参加をお願い致します。



場 所:仁淀川町基幹集落センター 2階会議室
高知県吾川郡仁淀川町大崎214番地

日 時 平成24年4月28日(土)
    総 会13時半から 決算・事業計画・予算について 
    講演会14時~ 講師:元地域支援企画員 西森文明 氏
演題:地域おこしの取り組みについて
    懇親会15時半~18時  参加料 2千円 当日徴収
 *遠方の会員が多く、不参加者は委任頂いたものとしてご理解下さい。

・史跡ガイド実施  武田の里大崎の陣“まいさるく”
  総会当日:午前10時30分迄に基幹集落センター前に集合。
予約が必要、0889-20-2003岡林たばこ店まで連絡下さい。
参加料:一人 1千円(かつよりくん弁当付き)

総会終了 善兵衛 URL

2012/04/29 (Sun) 11:29:52

総会は終了しました。

祝電を戴いた方敬称略
衆議院議員    山本 有二 氏
武田家十六代当主 武田 邦信 氏

平成二十四年度の計画予算が承認され本年度の事業がスタートしました。
御参加いただいた皆様始め委任戴いた会員の皆様有り難う御座いました。

武田勝頼土佐の会 会長 岡林照壽

埼玉県さいたま市大宮区にある初鹿野伝右衛門のお墓が、意味がありそうですが こうちゃん

2012/04/28 (Sat) 17:58:09

ご示唆ありがとうございます。さっそく大宮の地にある勝頼公とのかかわりを探してみました。何と、萬年寺というお寺に、勝頼公に従っていた初鹿野伝右衛門様の墓所があるとのこと、つながりました。初鹿野氏は、天正10年田野にて武田家が滅亡、後7月24日に徳川家康に召され人質として妻子を駿河国に置き8月7日50貫の地を賜っており後27日甲斐国において2百70の地を賜っています。(萬年寺というHPから引用させていただきました。すみません、この萬年寺というHPの中に大宮に初鹿野氏がいることが詳しく書かれております。)
 このことから考えた時に、土佐に逃げ延びた勝頼公達が、元気で活躍されていることを、初鹿野様は知っていた、さらに変名された勝頼公を慕う気持ちでいる、(今でこそ徳川家康の家来になってはいるが、心の底ではいつまでも勝頼公とともにおります)という心の表れから、大崎、玄蕃という固有名詞を用いてつけたのではないのでしょうか。
浦和に大崎と言う地名、大崎公園、玄蕃新田など不思議な地名があります。ご示唆いただきましたことから前述のことがわかりました。
 少し上の方を見ますと、勝瀬→勝頼(この地名・勝瀬のもとのかつは、且であったようです、=津久井の地名編というものの中に地名の由来が書かれているようです。その理由としては、片方が山、三方が川の地勢であるから、且瀬としたのだそうですが?しかし勝頼の頼にさんずいをつけるだけで瀬ですから、勝頼公と重なるところもありそうな気がしないでもないですね)などの地名が有ります。とのご示唆から少し調べてみました。
 八王子当たりは幕府直轄の土地でもあり、武田家臣達が徳川により囲われていた所でも有ります。(この部分は、天目山にて勝頼公=影武者様であると思いますが、達が自刃して以後、江戸時代に入っての事か?)武田家の家臣で、大久保長安様という方が、徳川家康公に信任厚く松姫様を保護したり、従ってきた武田家遺臣たちを幕府の同心にしたり、東北の伊達正宗公を意識しての千人同心としたり、甲斐を天領としたり・・というお話があるようですが?
しかし、川越、大宮、南房総市と勝頼公が逃避するためのルートの一端が、少し見え出したような気がいたします。まして、松姫様逃避行の折には、小山田信茂公はご自分の配下である間者50余人をつけて八王子まで送らせたというような文献も一部にあるような感じの本を目にしましたが・・。
 いよいよ、小山田様が謀反は起こしていない(すでに、武田信興様をもうけた時点で、解消していると考えている自分ですが・・。)、そればかりか、勝頼公が大崎玄蕃様で、土佐の地では、小山田公に助けられたとの伝承が、俄然、事の本質として見えてきた気がします。
まだまだ、だいぶいい加減な推測です記述しているのですが、かなり見えてきた気が一人しており悦に入っておりますます。
 いつも素晴らしいご示唆をいただくことができまして感謝いたしております。今まで以上に少しずつ少しずつ緻密に勝頼公=玄蕃様、小山田公大忠臣の推測を推測でなく、史実に少しでも近づけるよう注意深く学習してみようと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。

無題 善兵衛 URL

2012/04/27 (Fri) 14:18:34

戦国はし拳バトル(こども祭り)

武田勝頼土佐の会
日時:平成24年10月13日 
場所:吾川郡仁淀川町大崎

<団体戦:川中島合戦、武田軍*上杉軍>
* 川中島合戦:武田軍*上杉軍に別れて「はし拳」でバトルを行い、制限時間内に殿様を負かすまで行う。
参加者条件:段ボール等で簡単な鎧などを身につけて「武器は赤ばし3本」を持参(貸し出しも有り)して原則親・子供等で参加すること。

{ルール}
1,戦場の兵隊(以下「武将」という)は、武田軍*上杉軍に別れて「はし拳3本勝負」で、2勝した者が勝者となる。(基本ルール)
戦場で3人の兵隊に勝った武将は侍大将に挑戦する事が出来る。
敗者は戦場内では何回でも相手を捜して挑戦する事が出来る。

2,本陣前に立つ侍大将に挑戦する武将は、立て続けに3連勝しなければ勝ちとならない、3本勝負の内一敗で負けとなり場外に出る。(特別ルール)
侍大将は負けた時点で場外に出る。
3人の侍大将全員を討ち取ったら、武将若しくは侍大将は、次にお殿様に「特別ルール」で挑戦する事が出来る。
侍大将同士の勝負は「基本ルール」一回で行う。(敗者は場外に出る)

3,本陣のお殿様に挑戦する武将・侍大将は、立て続けに3連勝して打ち取りとなりゲームは終了、先にお殿様を討ち取った方が勝者となる。
挑戦者は3本勝負の内一敗で討ち死にとなり場外に出る。(特別ルール)
お殿様同士の勝負は「基本ルール」で行う。(終了となる)

4,制限時間はイベントに合わすが15分を基本とする。
制限時間までに勝負が着かない場合は引き分けとする。

*はし拳の撃ち方は、以下に示します。
はし拳の撃ち方

 はし拳の基本動作は、3本の「赤ばし」を武器として右手に持ち、上手(受けて)と、下手(撃ち込み)双方が対峙して「はし」の数(1本,3本,5本)合わせを競うゲームです。

ゲームは喧嘩ごしに啖呵を切るがごとく、威勢良く大きな声を出して勝負する。

・先に上手が「赤はし」を右手に隠して「さあーいらっしゃい」と、下手(撃ち込み)に向けて差し出す。(手の中は見せない様にする)

・次に下手が「赤はし」を右手に隠して「それでええかよ」と、言って3本(さんぼん)と撃ち込む。(さんぼん以外は言えない)

・上手は双方の赤はしの数を合わせた数字を想定して、1本「いっぽんよ」、又は5本「ごほんよ」と言って双方が手の中の「はし」を見せ合う。

・数が合った方が勝ち。数が合わなければ再度勝負を行う、この場合上手下手が交代で行う場合が多い。

・この勝負を3回行い、先に2勝した方が勝ちとなる。

はし拳は、勝負の時の掛け声が「土佐弁」の荒い言葉が特色で面白い。
個人によって色んな掛け声があり、勝負を面白くしている!

*以下に標準な掛けことばを示す。
上手(受けて)勝負するかよ!
下手(撃ち込み)あー、勝負 勝負
先にくるかよ!
へぼから申す(へたくそから)
そうかよ、それなら此へいらっしゃい。(先にはしを差し出す)
さんぼんよ!(合わせて、3本に成るように出す)
いっぽんよ(又は、ごほんよ)
双方が見せあい、勝負を決する。

(注 意)
はし拳は土佐の宴会ゲームで、酒場を盛りあげる余興です。地域によっては多少ルールが違う場合が有りますので、其処の場所のルールに合わすのが礼儀

ご示唆ありがとうございます。大変な推測・妄想になりますが・・・。 こうちゃん

2012/04/26 (Thu) 05:33:48

  素晴らしいご示唆に心から感謝いたしております。多分、別人であって、17代目が真里谷武田信勝公で此の人物で、大永3年(1523)没の方の位牌であるのではないかと思います。とのことありがとうございます。
 さっそく、富士山智蔵寺の住職様に再度、電話で問い合わせをしてご指導を仰いだのですが、その位牌が残っているだけで後のことは全くわからないとのお返事でした。
 そこで、私なりにご示唆いただいたことから推測、推論、妄想したのですが
推論①
・天目山にて討ち死にしたと思われている、勝頼様はやっぱり影武者様ではないか。本物の勝頼公(武田夫人・信勝公)は、房総に落ち延びることができたと結論つけたい自分がいます。
 理由
 前回投稿させていただきました越谷市役所のホームページにあった、照蓮院の「越谷市指定文化財・千徳丸供養塔」のこと、また・瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。ということから考えると、勝頼公様たちも越谷までは逃避してきた、さらに房総武田の地にある富士山智蔵寺まで到達した。
そして上総武田の武田信勝:新羅三郎義光から14代目の武田信長から別れた流れで・16代目で更に真里谷武田に其の17代目が真里谷武田信勝で此の人物です。大永3年(1523)没、この方のおられたことを当時(天正10年3月以降の富士山智蔵寺に到着した頃?)の住職様からお話を聞かされて、御自分のご親類衆の中に同名のご先祖様がおられたことを知った。そこで甲斐武田信勝公ご自身で、真理谷武田信勝公の位牌を本堂奥に納められたのではないか?だから武田家を表す菱形の家紋の下に「前甲信太守従四位下霊徳院殿英琳道傑(どうけつ)大居士」裏には「當山開基 俗名 武田次郎三郎源信勝 天正12年(1584)星次癸3月27日20世代造之」と書いてあり、武田信勝の文字が見える。
 この「20世代造之」の文字は、甲斐武田信勝公ご自身(または、勝頼公が信勝公に御指示されご先祖様の御霊を供養される意味を持たれた)ではないのだろうか、との妄想が頭の中に浮かんできたのですが、・・・。大崎玄蕃様=武田勝頼公と思い込んでしまっている私の頭の中では、何とか一縷の望みを持ちたいのですが・・・。 
 三人の武田信勝様のうちの真理谷武田信勝様のみ、考えさせていただきたく思いますが・・・。宜しくご指導のほどお願いいたします。


埼玉県越谷市・武田勝頼逃避行で検索したら・・・ - こうちゃん

2012/04/24 (Tue) 15:48:16

 次のようなHP「戦国堂 店主の部屋」に遭遇いたしました。すみませんが、内容を参考にさせていただきました。
 
 越谷市役所のホームページに照蓮院の「越谷市指定文化財・千徳丸供養塔」というのを発見しました。
ホームページの説明文には、
瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
 なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。
とあります。
 武田家滅亡に際して、武田勝頼の遺児が落ちのびた伝承は、山梨県笛吹市石和の鎮目地区にもあり、「芍薬塚」として残っています。幼児であった点、家臣に伴われて落ちのび匿われていた点が共通していますが、織田信長軍の追及を逃れた遺児が2人いたのではないかと思われますが、今その真相を知ることは難しいことだと思います。。
 供養塔は、市内の照蓮院(埼玉県越谷市瓦曽根1-5-43)
 照蓮院は越谷市役所に面しているため、わかりやすいです。本堂の前に大きな掲示板があり、千徳丸供養塔についての解説が書かれています。

このHPを見て、4月16日に本掲示板に書かせていただいた予想の、利根郡大谷の近くのどこかに、勝頼公の伝承、伝説がないものかとその近くの各地区の様子にあたっていたら、このHPを目にしました。
 そこを引用させていただきましたが、この伝承がいくらかでも勝頼公の逃避ルートにかかわってくることを感じました。自分のストーリーの中では、まさしく富士山智蔵寺につながる一地点の発見ではないかと思っております。
この時に、もし勝頼公達も一緒であったと推測したら、少なくとも私が予想した2地点がつながる気がするのですが、いかがでしょうか。ただ、まだ、智蔵寺様の方も確認することがあるのですが・・・
でも、このルート(下記)を少し追ってみたい自分がいます。
新府城~信州伊那~雲峰寺~利根郡大谷~利根川水系で上総武田~旧三芳村(現南房総市)~現館山あたりから武田水軍によって土佐までのがれた。
このような推測ができるような気がしてきました。
ただ、このルートの信州伊那は外した方がよい自分がいます。当時の様子(私がわかっているであろう資料の読み取りから)から、外したいと思っております。宜しくご指導お願い致します。

Re: 埼玉県越谷市・武田勝頼逃避行で検索したら・・・ 善兵衛 URL

2012/04/25 (Wed) 18:14:05

少し西に目を移してください。以前の書き込みから。
浦和に大崎と言う地名、大崎公園、玄蕃新田など不思議な地名があります。
少し上の方を見ますと、勝瀬→勝頼などの地名が有ります。
八王子当たりは幕府直轄の土地でもあり、武田家臣達が徳川により囲われていた所でも有ります。
ミステリーな場所でも有ります。
意図的に抹殺された歴史が潜んでいるやも知れないですね。
勝頼達は平和な時代、天正15年から後は無くなるまで痕跡が消えています。
駿河や諏訪、房総から八王子に至る所に出現してたかも知れませんね、ふ~しぎな歴史ミステリーですね!

三人の武田信勝 善兵衛 URL

2012/04/24 (Tue) 17:40:46

三人の武田信勝

上総武田の武田信勝:新羅三郎義光から14代目の武田信長から別れた流れで
・16代目で更に真里谷武田に其の17代目が真里谷武田信勝で此の人物です。大永3年(1523)没
・上総武田の嫡流は、16代目武田道信・・19代目武田豊信(信之養子)です。
・豊信は天正18年の小田原征伐で北条と共に滅亡と。
・しかし土佐の系図では信玄の3男武田信仲で出てきます。

土佐では武田信仲(信之)の墓所

nobunaka01.jpg


伊予武田の武田信勝
・14代目武田信繁の弟信友が兄信繁の子国信と争い、長男信保を伴って伊予越智郡竜岡村に閑居に始まる。
・信保から7代目武田信勝が龍門山城主と成る天正10年12月(1582)毛利元就の謀略で討ち死に。

位牌がある光蔵寺
DSC00309.jpg


甲斐武田の武田信勝 
・19代目武田信玄の孫で父は20代目諏訪四郎神勝頼、後の武田四郎勝頼です。母は織田信長の幼女(妹の子)遠山夫人21代目武田信勝天正10年3月11日天目山で死亡。
・土佐の武田系図と史跡では父勝頼と共に土佐に下り墓所があります。寛永6年(1629)7月11日63歳没

伝説・伝承を探していたら・・ こうちゃん

2012/04/14 (Sat) 11:03:24

武田勝頼公・北条夫人・勝頼公嫡男の信勝公の足跡を追い始めた矢先に、なんと公ちゃんが小学生中学生の一時期に生活した千葉県の現南房総市(旧三芳村)にある曹洞宗の古刹である、富士山智蔵寺というところに引き寄せられました。
そこのHPに掲載されている文を以下に掲載いたします。(ご住職様に了解をいただいております。しかし、本HPの作成者は、お寺様ではないとのことでした。)

武田信玄の孫。智蔵寺を開いた人物。戦国時代の天目山の戦いに武田勝頼が織田信長に敗れ、全員が討ち死にしたとある。
 ところが、影武者を使うことで有名な武田氏のこと、再興を目指して影武者を使って、信勝は逃れ山名の地に来たと言われている。
 当時の房州には真里谷(木更津市)に甲斐武田氏の分家が勢力を張っており、この親戚を頼ってきて、山名の大寺を開いたと言われている。真偽は不明であるがロマンでもある。
 信勝公の位牌が本堂奥に納められており、武田家を表す菱形の家紋の下に「前甲信太守従四位下霊徳院殿英琳道傑(どうけつ)大居士」裏には「當山開基 俗名 武田次郎三郎源信勝 天正12年(1584)星次癸3月27日20世代造之」と書いてあり、武田信勝の文字が見える。
 この位牌と同じ文字のお墓が信勝の生まれ故郷山梨県にある。

このような文面を見たときにやった、と思いましたが、電話でいろいろとご指導いただいているうちに、勝頼公達が陸路でなく水路で土佐まで逃れたのでは、という気持ちも心の中で頭をもたげてきました。それは、ここ富士山智蔵寺までの経路は、坂東太郎(利根川)を使って、ここまで来たようである、というお話をいただきました。
そこで、もしかしたら以前ご指摘いただきました、海路での土佐行きもありかな、また、智蔵寺の来歴を考えた時に、約80年ほどの時間差については
・勧請開山が1502年である。
・富士山智蔵時の開基が1582年(天正12年)であるとのこと。
この80年の歴史の空白は、詳細がよく分からないようであります。(本寺と末寺の関係が絡んでくるようなお話でしたが・・)
ただ、信勝公はここで逝去したことになっているようですが、お墓はどうも無いようであるとのことでした。
逃避行の推測としましては
①大菩薩にのがれそこから川越あたりまで行き、そこから利根川を利用して、房総武田氏を頼っての逃避ルートも確かに考えられるルートではないかと、思われます。
このことから、陸路2ルート、利根川利用での逃避行として1ルートの3ルートを考えなくてはいけなくなったようです。頑張って、取り組みたいと思っております。どうぞ宜しくご指導いただけますよう、よろしくお願いいたします。

Re: 伝説・伝承を探していたら・・ 善兵衛 URL

2012/04/17 (Tue) 14:13:22

上総武田は⑭信長から⑮信高⑯信興⑰信勝で此の人物では、上総嫡流は⑯道信⑰宗信⑱吉信⑲豊信(信之)です。
甲斐武田は⑲信玄⑳勝頼なので3代ほど時代が開いて居ますので80年は説明が付きます。多分「・・・造之」から、この時代造られた位牌の事実、よく調べないと分かりませんが後の時代に造られた位牌が誰のものなのか?またどんな理由で造られたか検証の必要が有ります。

無題 こうちゃん

2012/04/16 (Mon) 22:03:56

4月12日に、次のようなご示唆をいただきました。
 先ずは3月2日高遠城が落ちた時点で危機を感じた勝頼は、子供達を家臣に託して逃亡させたと思います。次に系図通りだと利根郡大谷の何処かに潜伏していて本能寺の変を契機に四国土佐に落ち延びたかも、3番手は小田原北条征伐1590年に3男の武田信之(信仲)豊信達が次々に後を追うように土佐の安居村大崎村に来ています。海路、陸路かはわかりません。命には帰られませんので武士はおろか神官僧侶百姓達まで集落全体で逃亡したことでしょう。

ご示唆ありがとうございました。このことから
高遠城が落城した時(3月2日)に、勝頼公達は新府城にいたはずですが・・。3月3日未明に新府城に火をかけ自落させていたと思っております。
その日に、現山梨市の大善寺にいた、理桂尼様を訪ねられたと理桂尼記にあるようですが・・・。もしこれが真実であった(影武者)としたら、3月2日の晩に影武者に入れ替わっていたことと考えた時に、影武者は史実としての行動をとっていた。勝頼公達は、新府の城を3月3日の未明に、信州伊那の犬飼村?の長延寺領の武田信道様のもとに逃げて身を隠していた。その後、織田軍をやり過ごして裂石山雲峰寺に御旗楯無鎧を預けた後に、房総武田の武田豊信様(信玄公3男の信之様ではないか?)を頼って利根川水系を下って、富士山智蔵寺に身を隠した。ここから、海路(武田水軍の手によって)によって土佐までのがれたのではないか。
推測①
・信州伊那の犬飼村にある長延寺領に海野信親様の子、武田信道様が、入明寺の栄順と長延寺の実了の手によって逃れさせられていた。ここを頼ることが逃避行のルートとして考えてもよいのではないか。
推測②
・①のところから裂石山雲峰寺に寄って、御旗楯無鎧を置いて、大菩薩峠を降りて信濃の国から三国峠を越えて上野利根郡大谷(現群馬県沼田市あたりか?)から利根川水系を下った。
結果
富士山智蔵寺に信勝様の位牌の裏の書付が残されている。
推理と現実?が一緒になって私の能力では整理しかねるところまで来たようですが、今まで北陸路(真田公・上杉公に目が行き過ぎていた感じですが)を意識しすぎたきらいがあるようです。
新府城~信州伊那~雲峰寺~利根郡大谷~利根川水系で上総武田~旧三芳村(現南房総市)~現館山あたりから武田水軍によって土佐までのがれた。
このような推測ができるような気がしてきました。
本日、岩殿山丸山公園(山の中腹ですが、ご近所の方々とお花見をしてきました。)から見上げた岩殿山頂が、曇り空でしたが、私の目には桜の花とともに輝いて見えました。
どうぞよろしくお願いいたします。

大崎家について 宍戸

2012/04/16 (Mon) 00:54:32

はじめまして
亡くなった祖母が仁淀川町の出身です。
昭和の初めに家族で九州へ来たと聞いています。
親の代で現地の親戚と繋がりを持つ者は居ませんし、
行ったものもいません。
古い戸籍を入手したところ仁淀町の出身と分かりました。しかも祖母の旧姓は『大崎』といいます。
この度GWにそちらへ行ってみようと思い色々調べていたのですが、『大崎』という名前が武田と何か繋がりがあるのだろうかと興味を持ちましたのでこちらのサイトに来てみました。
に淀川町には『大崎』という苗字は多いのでしょうか?
祖母の本籍は出生地は大崎村川井とあり、本籍地は加枝とあります。

武田氏のことを知った時にいにしえのロマンを感じたのですが、何か関わりがあるのか手がかりがないのでもし何かご存知の方がいらっしゃったらと思いこちらに書き込み致しました。

初めての四国旅行を先祖を辿る旅に行きます。
筋違いなことでしたら申し訳ございません。

Re: 大崎家について 善兵衛 URL

2012/04/16 (Mon) 11:08:16

全く筋違いでは有りません、喜んでお待ちしています。
4月28日は武田勝頼土佐の会の総会で29日平家会30日は叔父の祀りと5月4日は支えがあり忙しいですが、時間が合えばお尋ね下さい。ガイド案内を致します。
勝頼は大崎玄蕃と名前を変えて大崎一族が居たと思いますが、1600年の関ヶ原から山内氏が土佐に入り改易となった長宗我部氏と共に活動した大崎一族は皆飛散逃亡の節目に有っています。
県内の大崎一族は山間の地に逃れ皆苦労して今日に至っています。
加枝の大崎氏が一軒居まして近くに大崎氏の先祖の祠が有ります。私の推測では先祖は武田信仲。勝頼の兄で信玄の3男に当たり子供の祠が大崎半四郎でひょうたん桜で有名な桜に有ります、又信仲の墓所も有ります。
ブログを参考に見てください。加枝に関するhttp://terutoshi.blog96.fc2.com/blog-entry-24.html大崎半四郎のブログhttp://terutoshi.blog96.fc2.com/blog-entry-20.html

小山田信茂公は、謀反人ではない。ありがとうございました。 こうちゃん

2012/04/08 (Sun) 21:07:23

平成24年、4月8日(日)武田信玄公祭りの一環として、寺子屋が開かれました。何と「勝頼公は、土佐で生きていた」という講演題でした。
もちろん、とるものもとりあえず、駆けつけました。
講演が終わってからの質疑で、私の持論である小山田信茂公は、大月の岩殿城に勝頼公を入れなかったのではない、また、香具姫様の娘さんと勝頼公の兄上、龍芳様の孫の武田信正様と結婚して、武田伸興様が出生しているのですが・・・これは、明らかに小山田信茂公が謀反どころか、勝頼公を何らかの形で支えておられたからの措置ではなかったかと考えることの方が無理がない自然な考え方になるのですが・・・とうったえさせていただきました。そこにおられたどなたからも、何もお言葉が返ってきませんでした。
私は、そこで小山田信茂公の先見性とその時の時勢を見抜かれた眼力のすごさを改めて感じました。400年もの間、黙して語らず、ただただ主君武田家の命脈を保つための下支えとしてのお力を発揮しておられた、敬服どころかわが郡内のさすが、ご領主という言葉が見つかりません。
だいぶ、情緒的な文脈になってしまいましたが、岡林会長様はじめ、会の皆様とわずかな時間ではありましたが、直接会話させていただきまして、改めてつながりも感じました。本日は、とっても充実した一日でした。皆様、遠くからお疲れでした。今後ともよろしくご教示くださいませ。ありがとうございました。

Re: 小山田信茂公は、謀反人ではない。ありがとうございました。 善兵衛 URL

2012/04/09 (Mon) 17:11:43

会場でお会いでき嬉しく思います。
質問の内容からそうかなとは思いました。
熱い思いが伝わってきました。
穴山氏も武田を残そうと裏切りの道を選んだのでは無いかと思います。
歴史に確証は難しいですね、論議を繰り返して時間と事象の積み重ねから社会が判断する事だと思います。
今回、勝頼を演目に選んで頂いたことに意義が有ると思いまして参加いたしました。
山梨県民に取っては関心事の一件ですし、興味深々で耳を傾けている方は多いと感じました。
高知でまた、お会いしましょう。

Re: 小山田信茂公は、謀反人ではない。ありがとうございました。 - 源次郎三郎晴朝臣

2012/04/15 (Sun) 04:45:54

全ての方が吾が先祖、信恒が徳川家康となるまで忍ぶことにより安堵の大成が成し遂げられたことは、小山田氏の活躍からも明らかであるとおもいます。
南の久能山のほうにはお近づきにならぬように徳川御本家の方にも教えられたのを思い出します。

武田勝頼土佐の会の皆様へ こうちゃん

2012/02/28 (Tue) 18:12:48

 前回は、手続き上のミスをいたしまして、大変ご迷惑をおかけいたしました。
さて、勝頼公の大崎玄蕃様のお話が何となく伝承とか伝説ではないような気がしてならなくなりました。
 その前に、訂正です。すみません。前回の菊姫様は、ずべて松姫様の打ち間違えです。迷惑おかけいたしました。
玄蕃様=勝頼公のことですが、お話を見たり、友達に話しても、何となくでなく、そうですね。何かあるから400年もの間、言い伝えられたのでしょうから・・・。とのことです。
 そこで、小山田信茂公の件ですが謀反を起こしたのなら
①なぜ、勝頼公の手勢わずか40余名からの人たちを攻撃し なかったので しょうか。
②私が、もし仮に小山田様の立場でしたら、勝頼公の首級を 持って織田方に投降したのではないかと考えますがいかが でしょうか。
①②ともに、小山田信茂公は、勝頼公達が「影武者」であることを知っていたから、攻撃せずにいた。
 このことは、本物の勝頼公達の方に目を向けさせずに、少しでも時間稼ぎをして勝頼公達を真田昌幸公の方に向けたかった。その表れではないのでしょうか。
 いずれにせよ、資料がないので推測の域をでないもどかしさが残ります。どうぞよろしくお願いいたします。

Re: 武田勝頼土佐の会の皆様へ - 武田一条名跡保存会

2012/04/15 (Sun) 04:35:38

おひさです。真田屋敷に行ったときに真田昌幸公の墓所につきまして多くの分骨なるご説明をいただいたのを記憶しております。


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