武田勝頼土佐の会ホームページを訪れた記念や、話題作りに♪ 何でもひと言書き込んで下さい。良いアイデアなどの投稿もお待ちしております!

武田勝頼土佐の会【掲示板】

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日本の武家三大聖人 小俣公司

2022/12/21 (Wed) 17:13:59

小生の講演記録を目にされた方から、電話を頂きました。その方が、とある大学で、日本史の御授業を成されたおられた「宮西一穂先生」が、御授業の中で仰ったとのことです。それは、楠木正成・真田行村・小山田信茂の三人であるとのことでした。60年も前にこのような事をおっしゃて下さった方が居られたとは・・・。言葉がありませんでした。信茂公の先見の明は素晴らしい、と言う事でした。

Re: 日本の武家三大聖人 - 岡林正徒

2023/01/30 (Mon) 20:14:17

60年も前の事、素晴らしいです。また、遠くより3月11日への表明をいたく感謝し、嬉しく存じます。
ブログのリンクをさせていただきたいと思います。今後とも宜しくお願いいたします。

講演会開催 小俣公司

2022/12/21 (Wed) 17:05:50

小山田信茂ブログ、是非ご覧下さい。
私なりの新視点、「甲陽軍鑑品57」を述べているつもりです。また、峡中家暦鑑なる本にて、三河と関わりのある記事も述べております。
更に、信茂公関連の菩提寺(長松寺・桂林寺・東光寺)、胴塚等(甲府善光寺裏・瑞龍庵・鎧塚)等にも触れております。お目通しいただけますと有り難いです。

小山田信茂様が勝頼逃亡に関与された事は間違いない 管理岡林

2022/10/30 (Sun) 00:17:09

先日、10月10日の日、武田八幡宮のご神前で、奇跡的にお会いした方は真田様、秋山様について詳しく伝承で残る中で新たな情報を、いただき、これから小山田様の会によ良い影響となるお話を聞くことができ、点と点を線でつなぐ考察をしております。
どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。

小山田信茂ブログ開設 小俣公司

2022/05/01 (Sun) 11:54:10

過日(4月9日)は、遠くからお越し頂きまして、大変楽しく、中身の濃い情報交換が出来ましたこと、心から感謝申し上げます。
話の中身は、
①勝頼公は生きて土佐において活躍、没した。
②土佐に東下する事には、信茂公の深謀遠慮があった。(田野に置いては、影武者説)
③陸路でなく、武田船団を使い舟で土佐まで下った。
その他、諸々
楽しかったです。これからも情報交換をしたいものです。ぜひ当方の小山田ブログ、小山田HPも覗いて見てください。
更に「信茂と勝頼」ご覧下さい。

Re: 小山田信茂ブログ開設 管理岡林

2022/10/30 (Sun) 00:05:01

小俣様
掲示板の確認を怠っておりまして、失礼をいたしました。
先程、ブログとホームページを拝見いたしました。
素晴らしい活動が身を結ぶ日が近いと感じます。
実は10月10日に武田八幡宮にて奇跡的な出会いがあり
小山田様にとっても良い情報が新たに得られました。
これをメールで改めて送付したいと思います。
互いの発展と、小山田様の会のご盛会を祈念いたします。

息子の八幡宮宮司 岡林誠)正徒

小山田信茂ブログ 開設 こうちゃん

2022/06/01 (Wed) 14:12:08

小山田信茂ブログ、開設していただきました。会員の
Tさんが、4月1日付けで開設してくださいました。
ご視聴いただけますようよろしくお願い致します。
また、土佐と甲斐ですが、距離的には遠くとも心は一つ、歴史の闇に光を当てましょう、心で繋がれた所は近くです。ブログでは、本顕彰会役員が、書き込みをさせていただいております。又、貴会会長様のお手紙もご紹介させていただいております、ぜひ一度お立ち寄りください。そして、お手紙をいただけましたら嬉しいことです。皆様、よろしくお願い致します。

Re: 小山田信茂ブログ 開設 - 管理岡林

2022/10/29 (Sat) 23:38:56

ありがとうございます。
是非とも、拝見させて下さい、
小山田様の顕彰と会の盛会を祈念いたします。
今後とも宜しくお願いいたします。

無題 こうちゃん

2019/03/03 (Sun) 06:09:26

 http://youjyounosato.jpn.org/data/NHKdrama.pdf
土佐は、勝頼公だけでなく、里見氏も逃れた場所?このアドレスを見て下さい。何か、歴史に隠された事が、続々と出てきているようです。上のアドレスは、小山田信茂公顕彰会の良き理解者で、ご指導頂いて居ります、夢酔藤山先生からのお知らせです。宜しくお願い致します。「散文小径」と言うところをごらんいただけますと、よくわかって頂けるかと思います。
小山田信茂公顕彰会のHP、または「岩殿山ブログ」も合わせてご覧頂けますとありがたいです。

不思議、信茂公の思惑は、やっぱり勝頼公を土佐に逃したのかしら こうちゃん

2019/03/02 (Sat) 06:16:08

見て下さった方が、おられたのですね。当日は、なぜか、NHKの方から取材させてくれますか、との問い合わせが事務局にありました。即OKです。しかも当日の、夕方?夜のNHK645でしたから、こちらが驚きました。
NHKニュース645がきて小山田信茂公顕彰会が放送された、この言葉を伺いまして、ますます、頑張らねば、との思いを持ちました。また、小山田氏の会で、調査していけば行くほど、何か心にかかることが、出てきます。
・松姫様は、無事に八王子に着いた、その後、生き延びた。
・加藤丹後守様は、箱根ヶ崎で北条勢(一説には、土賊?)に滅 ぼされた。これは、どういうことでしょう。
・甲斐善光寺は武田氏の信仰篤い神社、その北側直線にして約 200メートルほどの所に、逆臣と一般的に言われている、「小 山田信茂公始め十数名の方々の塚が在る」逆臣が、そのよう なところに葬られるのでしょうか。甲陽軍監等の記述が怪し い、等々、いろいろ出てきます。疑念が。これからの研究課 題です。今後とも、宜しくご指導お願い申しあげます。

小山田信茂公顕彰会もいよいよ・・・ こうちゃん

2019/02/27 (Wed) 10:42:53

会長様
こんにちは、いよいよ「小山田信茂公顕彰会」も、少しずつ動き出した気がしております。
2月24日、小山田信茂公顕彰会で、第1回目の記念すべきバスツアーが実施されました。25名募集させて頂き、きちんと25名の方が、参加して下さいました。当日は、天気も良く暑い位でした。何か、信茂公のご加護を頂いた気になりました。
小山田氏の菩提寺、桂林寺に墓参、ご住職様に読経までして頂きました。最後の見学地は、甲斐善光寺の北側に眠られておられる信茂公以下一緒に殺された皆様の塚、現地では「胴塚」と呼称されております。そこに武田家24將小山田信茂公の旗を立てさせて頂きました。なんとも言われぬ気持ちになりました。
帰りのバスの中で、信茂公の計画、後押しがあったから勝頼公は土佐に渡れた、と言うご指摘を頂き、またまた頑張らなければ、その感じを強く致しました。
東西から、通説に対して挑んでいけたらと思いまして投稿させて頂きました。ちなみに、3月24日午後4時から受け付け、午後6時45分まで、信茂公達の御霊を慰霊する「ランタン行列」を計画し、実行できるところまでやって参りました。
貴会のような活動にまでは、あと何年かかるやらですが、焦らず、たゆまず、じっくりと研究等を進めて参る所存でおります。今後とも、宜しくお願い申しあげます。

郡内小山田氏の会から小山田信茂公顕彰会へ こうちゃん

2018/04/03 (Tue) 04:58:45

平成30年3月27日「火」に第8回郡内小山田氏の会主催の講演会が開催されました。松本憲和先生「信茂公への私のおもい」という演題でした。理桂尼記の朱校本を発見され、それを詳しく読み解き、かつご自身のルーツ探しから得た結論としてのご発表であったと思います。勝頼公には直結しておりませんが、小山田公は裏切っていないというところは、以前からの私の持論への強力なサポート的な内容であったと得心しているところです。その席で、郡内小山田氏の会を、小山田信茂公顕彰会へと変名しますと発表させていただきました。今後は、小山田信茂公の事績、小山田氏一族の研究を通して、貴会と同様に地域おこしへとつなげていけるように活動をしていくのではないかと、また活動を進めながら通説と言われている歴史の一断面等に視点を当てながら、本当にそうだったのか、というような見方もしてみたいと思っております。今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。

Re: 郡内小山田氏の会から小山田信茂公顕彰会へ - 夢酔藤山

2018/12/18 (Tue) 07:10:46

12/16日曜日の集まりに、NHKニュース645がきて小山田信茂公顕彰会が放送されたそうですよ。当代もTVに出ました。小山田擁護ののろしになるよう、役員に発破をかけました。
定説は勝者の歴史、隠された真実があるあずです。

武田氏の史跡探訪というブログから拝借させていただきました。 こうちゃん

2018/06/07 (Thu) 05:21:08

武田勝頼墓
大法寺白山神社の下に「武田四郎勝頼墓」の石碑がある。吾川郡大崎村字川井に鎮座の村社河井神社の境内に鳴玉神社がある。祭神を玄蕃頭比古神という。この玄蕃頭は大崎村の始祖で昔から村民の崇敬を受けている。神社明細帳によると、大崎城主大崎玄蕃と云有、居城址に八幡宮の杜ありて、木偶子類社間に納む、希世の古物なり、里諺に大崎玄蕃は武田勝頼の変名なり、則勝頼墓もあり、木偶子は勝頼自ら携え来ると云々とある。
武田勝頼は天目山の一戦に大敗し、近臣と共に自殺せんとした処、この時高坂某という部将が之を諌め自ら武田勝頼と称して敵中に躍り入って、花々しく身代り戦死を遂げた。勝頼はそこで側近の従者を召し連れ、甲斐の国を遁れて諸所方々を潜行して武運回復をはかったが果さず、放浪漂泊すること数年、土佐に来り山田城主山田丹波守を頼って、この大崎に移住し、自ら大崎玄蕃と称し、大いに兵を養い、遂に吾川高岡の北部を領有して大崎城主となった。山田丹波守は玄蕃守の名声日に高くその勢力侮るべからざるを見て、後日の災難を恐れてこれを殺害せんと企て、或日彼を甫喜山の猪狩に誘い、矢立ずの杜という所で、臣下に命じて銃殺したと言い伝えられている。現在大法寺の峯という所に勝頼の墓があると。現在大崎村には玄蕃踊りという踊りがあり、この歌は玄蕃の礼讃や大崎村の人情風俗をうたったものである。其の一節に「大崎玄蕃殿、十七太刀ををかたいだ、弓はこうかたげ、たちはこうかたげ、たちは備前太刀、鞘もなし、のたちうち、さやのことはまあ云うな、さやはここにかまえた」
武田氏滅亡は天正10年3月11日であり、山田氏滅亡は天文12~23(1543~1554)の間であるので、武田勝頼の滅亡は山田氏滅亡より約30~40年後であり、勝頼が天目山で敗れた時は山田氏既に滅亡後であるので、この伝説が誤りであることは明らかである。この伝説が生まれた原因は、山田氏が甲斐源氏と関係が深かったところから生まれたものであろう。(南路志所載吾川郡仁村庄屋弁焏家系信義条。大楠植村誌大法寺村条所載)大法寺居住の時武田勝頼の名を改め、矢野民部信義と称したと。(新自由社刊、土佐伝説全集)
土佐山田町史より
この方のブログからですと、武田勝頼土佐の会のお話は、伝承の上に成り立っていることになってしまうのですが、会長様いかがなものでしょうか。小生は、今まで伝説ではなく歴史的事実により近いことではないかと、研究と呼べるほどのことではありませんが、史実と思い追跡をしてきたのですが、この一文を目にすると、さすがになるほどと思えてしまうのですが、ご指導宜しくお願い致します。

35年前のこと こうちゃん

2018/05/06 (Sun) 05:13:07

姓氏研究家「武田光弘氏」講演録(家系の調べ方)という本の中に、土佐の会の方々、私が提唱している「武田勝頼公が、天目山で敗れた後、長男信勝公を同道のうえ、上野国利根郡大谷に逃れ(土屋高久伝説が伝わる下仁田近く)、土佐の国吾川郡安居村に逃れ、大崎玄番尉と名乗り、天正13年川井村に定住、慶長14年に64歳で逝去するまで生きた」との系図を発見した、とありますが、気になるのはそのあとに、土佐の高岡郡の中村氏や佐川氏に仕えた、大崎玄番という人がいる、その人を安芸守護の武田氏に結び付け、さらには甲州武田氏の勝頼公に付会したのではないかとの記述もされております。いかがなものでしょうか。
まず、土佐高岡郡に大崎玄番なる方がおられたのでしょうか。ご示唆いただけますとありがたいです。よろしくお願いいたします。
ここで言いたいことは、35年も前に小生が指摘してきたように、新府、上野、江戸湾のルート(当時はヘリコプターでも使わなければ、このルートは考えられない、とも記述されておりますが)を考えられた方がいた、その資料がどこぞにあるということが、知らせていただけでも、今後の励みになるということで投稿いたしました。

勝頼公は大崎玄番公、小山田信茂公は大忠臣であった こうちゃん

2018/04/03 (Tue) 04:43:16

天正10年(1582) 信長の軍に負けた武田勝頼の一行(子供と家臣数人)は、上野国利根郡(現在の群馬県利根郡)に一時は隠れます。その後、諸国を巡ります。 (系図より)群馬県下仁田には、土屋高久様の伝承が残されているようです。従いまして、勝頼公は、信玄公の棒道から下仁田を通過し鏑川、烏川、利根川で房総武田を頼り、それ以後は、武田水軍によって土佐に行かれたと、勝手に思い込んでおります。その補助資料ともいえる物を発見させていただきましたので、借用させていただきました。ご覧ください。勝頼公の土佐行きには、このような裏付けがあったればこそと思っております。
武田勝頼と伊予河野但馬守通重の関係
2012-09-05 11:25:08 テーマ:歴史・秘話を追跡
武田勝頼と伊予河野但馬守通重の関係
伊予武田黒川家(通重)と安居但馬守の関係
『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した系譜集である。
(付出し人は、四郎左衛門通泰)
●伊予越智氏 河野通重(みちしげ)通康・但馬守
 代々伊豫國に住し、通重がとき甲斐國にいたり、武田家につかえ、天正十年勝頼没落のち駿府においてめされて東照宮にまみえたてまつり、仰によりて先方を支配す。・・・
(十二年長久手の役に共奉し、十五年至仕す。文禄四年(1595)十月十八日武蔵國八王子において死す。年八十六。甲斐國一蓮寺に葬る。)妻は武田家の臣秋山籐左衛門某が女。  ホームページから
● 通郷(みちさと)  
   傳之蒸   父は通重  母は籐左衛門某が女。
(天正十五年家を継、甲斐國和戸のうちにをいて千七十俵を所務し、父が役をつとむ。十八年関東御入国ののち、甲斐國は豊臣家の有となるにより、本領を収められ、に月棒をたまふ。このとし北条陸奥守氏輝亡ぶといへども、なお残業あらむもはかりがたしとて仰をうけたまはり、武蔵國八王)・(一部未読あり)
*河野但馬守通重の子、河野傳之蒸通郷は但馬守を継がず「傳之蒸」を名乗る。
伊予武田・河野(黒川氏)系図から
13代目 黒川通矩(みちかね)別名:道轉。道信。山城守
子息:通俊(大野霊神社)。通重(天正12年4月27日没)。政長(幻城主)
14代目 黒川通尭(みちたか)・天文17年(1542)戌申12月3日没

●長宗我部元春 別名:黒川通尭。通仁(みちたか)。肥前守。(河野系図から)
子息:黒川宗太郎通長。対馬守通俊。美濃守通博(養子)。
国親の次弟。兄国親・元親と不和になり永正5年(1508)土佐を出奔し、伊予に逃げた.
(父兼序は山本氏山田氏大平氏吉良氏に攻められ自害の時伊予に逃亡が正しいかと思う)
この時、通矩と兄弟の縁を結び黒川元春と名乗った。
伊予にて黒川通矩の妹婿養子となり黒川土佐守通尭と改称して剣山城を築いた。
長男通長を壬生川攻めで、次男にして嫡男の通俊を戎能攻めにて失ってしまう。
河野氏の一族である正岡右近大夫通純の次男・通博を養子に迎え、跡を継がしめた。
* 長宗我部元春は土佐から伊予へ、義兄弟の次男通重は伊予から甲斐へ繋がっていた。
p* 父の跡継ぎを長宗我部元春に譲って「通重」は甲斐に行って勝頼に仕えている点に注目。
* 通重は河野但馬守通重といって、勝頼の側近、近習衆横目衆、子供の教育係であった。
 以上のような、素晴らしいブログ?またはHP?を目にしました。まさしく、四国と甲斐の国がつながっていたことを示す文であると思います。勝手に使わせていただきましてすみませんが、皆様、これを見ても、武田勝頼土佐の会の皆様の言葉に、信ぴょう性があると、私は理解しております。ロマンを語るととともに、歴史を見直す視点を持ちたいと勝手に考えております。勝頼公を、土佐に逃がしたのは、紛れもなく小山田信茂公と真田昌幸公の連携プレイのたまものであると考えております。
2012-09-05 11:25:08 テーマ:歴史・秘話を追跡
武田勝頼と伊予河野但馬守通重の関係を書いてくださった方には、本当に申し訳ありませんが、ご提供の文をお借りいたしましての投稿を、どうぞご容赦ください。


Re: 勝頼公は大崎玄番公、小山田信茂公は大忠臣であった - かつより

2018/04/18 (Wed) 18:04:32

ご無沙汰しています。
貴殿も研究が進んで居るようで幸いです。
今は、小説に没頭しています「小説 玄蕃踊り」です。
内容は、土佐での勝頼が中心ですが、眞田の郷の入れています。
発刊は致しません、費用のため?HP上で載せます。
資料編と小説が混在しています、今250ページNI。

麻生太郎は国会で高い値段を言ってしまった - うさぎ777

2017/07/03 (Mon) 06:45:26

麻生太郎は国会で高い値段を言ってしまった

http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p031.html#page200

参院外交防衛委員会で「カップラーメンの値段が分からない」と問題視発言があった。

( http://sky.geocities.jp/datepedia/02/update.html )

( http://park.geocities.jp/j_con4/0104/p041.html )

( 個人的意見 )

大崎玄蕃公の玄蕃謎が解けました。 - こうちゃん

2017/03/26 (Sun) 08:50:11

郡内小山田氏の会第六回に参加して
 城館から見る小山田氏の領地支配、と言う
講演題で、尾形竜一氏の講演を拝聴できた。
 初めに配布された資料に目を通したところ
本当にこんな所に城館があったのか、と思える位にユニークな地点のところがあった。
 中でも玄蕃屋敷と言う城館の名前を目にした時には飛び上がらん程驚いた。
講演が進むうちにそれぞれの城館跡の説明にいちいち納得して聞き入ることができた。
 小山田氏と言うと、通説で言われている「小山田信茂公」の勝頼裏切りと言う、非常に短絡的な一点にしか目がいかない、大変不合理な俗説(甲斐国史の一文)が、通説となっていることに、忸怩たる思いを持っている私にとって、息が止まるほどの言葉であった。
 そう、「玄蕃屋敷」と言う城館名の説明である。尾形氏の講演では、都留大月地区の城館、烽火台跡と言われている場所の精査から、小山田氏の郡内領地支配がどのようなものであったかを、丁寧に資料精査され説明していただいた。
 私にとっては、玄蕃屋敷と言う城館がどこにあり、どの程度の規模なのか、それは意味のないことである。ただ、玄蕃なる言葉がどこからとられていたのかが、疑問であった。それが、氏の資料中に、現大月市初狩町中初狩の一角に、玄蕃屋敷なる館跡があったとの資料提供がされたのである。
 私の持論である、「武田勝頼公は、土佐にわたり変名し、大崎玄蕃様になった。」と言う土佐武田勝頼の会の皆様の説の意味が、よくわからないでいた部分が、これで得心できた。ことの方が、重要であった。
土佐の伝承では、大崎と言う名前は現在の土佐仁淀川町にある、大崎から取った。しかし、玄蕃と言う名前は、一体どこから取ったのであろうか、ずっと疑問であった。それが、見事に得心できた。
 土佐における勝頼公は、「私がここに来ることができたのは、ひとえに小山田信茂公のお蔭である。」との伝承があるとのことの裏付けができたことである。大崎玄蕃の玄蕃は、ここから取ったのであろう。更に研究である。

無題 - 台風も地震もアメリカがHAARPを使って作ってる

2016/11/22 (Tue) 23:57:11

衝撃事実拡散

最近異常気象が目立ちますけど、台風も地震も大雨も、米国の糞諜報、NSA(米国家安全保障局、スパイ)が、HAARP(電離層ヒーター、高周波活性オーロラ調査プログラム)で作り出したもんです。「HAARP、地震」 「HAARP、台風」等で、ネット検索してもらえば出ます

この世の病気、争い、自殺、殺人、墜落事故、交通事故、火災、ありとあらゆる災いを、秘密裏に作り出してる組織がNSAです

本題に入りますけど、公明党(創価)が、一般人や学会員を病気にしたり、事故に合わせたりする、危険な組織だって事が世間に知られてないので、拡散させてます

犯罪組織を特定して、拡散していく事で、この犯罪は減って行きますから、盲滅法にバラまいて、世間に浸透させてます

この犯罪の主犯各は、米国の諜報機関(スパイ) のNSAです

創価が、CIA (米中央情報局、スパイ)の下部組織ってのもあって、『NSA』っていうスパイが、創価の悪事に便乗して、創価になりすまし、創価を利用してやってる犯罪です

公明が与党になってから、精神科、心療内科急増、障害者手帳を持つ人急増、向精神薬の売り上げ急増。何十年にも渡って、人知れず多くの人に災いを与えて来た政党が、公明(なりすましのNSA )です

多くの人を病気にしてるのに、この犯罪が世間に漏れてない理由は、遠隔から私生活を監視盗聴して、生活に沿った病気や痛みを与えて来たからです。重い物を持ったら腕に痛みを与えたり、ツラい事があったら鬱にしたり等。相手に覚られず、任務を遂行するスパイ組織が主犯各なんで、私生活に便乗して、違和感を持たせずにやります

NSAは自国に害をもたらすテロリストや、凶悪犯を監視して撲滅させる諜報機関なので、地球上の全ての人を管理し、不届き者を秘密裏に懲らしめる事をします(こいつらが1番の不届き者ですけど)

【重要】青森県三沢基地には、 NSAの電波傍受(盗聴)施設がありますし、世界中に通信傍受施設を配備してるので、地球上のどの地点にいても、ケータイやPC等の通信機を介して盗聴します。通信機は、電源オフにしてても盗聴器になってます

この犯罪は、GPS (全地球測位システム)を使ってやるので、地球上のどの地点にいようと、どんな建物の中に入ろうと、継続的に、監視追跡出来ますし、どこに居てもピンポイントで、痛みやカユミや病気を作れます

そもそもGPSは、【米国防総省】が軍事目的で開発したもので、管理運営も【国防総省】がしてます。NSAは【国防総省】の管轄で、CIAが大統領の直轄です。台風や地震を作り出すHAARPも、【米国防総省】主導によるプロジェクトです。つまり、この地球規模犯罪を総括してる組織は【米国防総省】って事です

ノイズキャンペーン(騒音の嫌がらせ)に至っては、救急車のサイレンで嫌がらせする為に、重篤な患者を作り出しますし、パトカーが付きまといをする集団ストーカーは、警察に通報させないように、警官を操って、いかにも警察が嫌がらせしてるように、工作します。警官は、自分が操られてる事に気付いてません。これらは全国でやってますから、警察関係者は知らぬ間に、多くの人に恨みをかってるって事です。警察の内部事情は全て筒抜けで、パトロールに行く時間も全て把握してますから、それに便乗する形で警官を操り、定規で測ったかのような、神懸かった抜群のタイミングで集ストします

行く所行く所で周りの人が咳払いしたり、くしゃみをしたりする集団ストーカーは、被害者の周りの人に波動を当てて、咳払いやくしゃみをさせてるだけです。いかにも集団でストーカーしてると思わせて、心理的負担をかけてるだけです

咳をした時の周波数と同じ周波の波動当てると、人為的に咳を出させる事が出来ます。例えば、TBSラジオ90.5MHz、ニッポン放送93.0MHzに周波数を合わせると、これらのラジオを聴けます。これと同じように、食欲が湧かない時の周波数、眠れない時の周波数って具合に、それぞれの周波数と同じ周波を当てると、ラジオが切り替わるように、その状態に切り替わって、意識操作や精神疾患を作り出せます

生態の周波数コードを読み取って、脳波パルス信号に、同じ周波数を送ると、波動が共鳴して、その状態に切り替わります。例えば、人が右に曲がる時の周波数コードを読み取って、その周波数と同じ周波数を送ると、いとも簡単に右に行かせる事が出来ます。これを利用すれば、警官を操って、パトカーに集ストさせる事も、たわいないです。好き嫌いの感情、食欲等を操る事なんか、造作もないです

例えば、蛍光灯に虫が集まるのは、ある決まった周波数の紫外線に、吸い寄せられてるからです。逆にいうと虫ですら、周波数で操作が可能って事です。昆虫類は、それぞれが違った周波数の光に誘引される性質があるんで、どんな虫でも周波数を変えると、自在に操作が可能って事です

創価が仏敵によくヤる、家の中に害虫を呼び込んだり、カラスを屋根の上に集めて暴れさせたり鳴かせたり、犬を吠えさせる嫌がらせも、NSAが科学技術を用いてヤってます

ちなみに、27~38Hzで不眠に、48~55Hzで喘息に、88Hzで片頭痛が引き起こされます。それぞれの病気が、それぞれ決まった周波数を持ってます。これらの周波数と同じ周波を当てれば、どんな病気でも作り出せるって事です

特に、公明の支持母体、公明の栄養源である、創価の活動家には、頻繁に災難が降りかかるんですけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってます。災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すようになるので、定期的に科学技術で災いを与えます。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもんです

人間心理ってのは面白いもんで、自分の存在が明らかにされない場合、他人に対して冷酷なまでに大胆な振る舞いが出来ますけど、身元を特定されて犯罪手口が皆に知れ渡ると、大胆な事をすれば自分に被害が及ぶので、やりたい放題出来なくなり、犯罪の抑止効果に繋がります。なので、こいつらに火の粉を降りかけるべく、NSAの名を全面に出して広げてます

https://shinkamigo.wordpress.com

わすれられた、もう一人の源氏 - さんちゃん

2016/11/22 (Tue) 22:48:16

紀州武田の御本家(みもとけ)は、家系図に土佐に住むと残っており、四万十町の志和薬師寺の棟札に、御本家領家次第沙汰人とはっきりと 残っていますが、誰もきずいていません。
高知には、ちゃんとした歴史家は いないんですね。

大崎玄蕃様はやっぱり勝頼公に間違いないと断言したい こうちゃん

2016/08/21 (Sun) 16:10:59

久しぶりの投稿です。過去の文でも、件名と同様の書き込みをさせていただきました。現地での検証もできず、新資料も発見できずにいるので、遠慮をしていましたが、状況証拠から断言することに確信をいくつか持てました。
そこで投稿させていただきます。
①勝頼公は、田野で自刃していない。影武者が首を取られたと 断言したい。織田信忠、信長ともに、勝頼公の首が確認でき ていない、打ち取ったと言っている方の馬の毛がついていた からという、今風に言えば、非常にいい加減な首実検であっ たようだ。
②勝頼公に、小山田信茂公が再三のお願いで、岩殿城に入場し ていただきたい旨、連絡をしているにもかかわらず入場を約 一週間ほど拒んでいるとしか思えない行動をしていた。
③岩殿城には、勝頼公の部下が当時100名ほど在城してい  た。結果、影武者が知られてしまう。したがって入場しな  かった、できなかった。ここから、小山田信茂公裏切り説が 勝手に歩き出した。(戦国時代に、下克上は当たり前、江戸 時代になって朱子学等の影響で、武士道精神が普及しはじ  め、小山田公の事柄を必要以上に宣伝した、徳川家?の陰謀 か=平和な世になって主君に逆らうべきは不忠としかいえな いという教えを広め、幕藩体制の体制強化策とした?)
④こうちゃん流の都合の良い事実であろうという妄言の開始
(A)真田昌幸公と小山田信茂公二人が、約450年にわたる   正史と言えるものを、書き換えさせていた。さすがに知   恵者のお二方である。やりそうなことだと思いません     か。
(あ)天正10年3月真田公が岩櫃城に引き上げる時に、勝頼   公と北条夫人、長男の三人を、ひそかに連れ出した。こ   の事実を公にできないように、二日の晩から三日の明け   方に、新府城に火をかけさせた。(影武者が指揮を執っ   た推測)
(い)陽動隊として影武者に、土屋昌恒等の武将を何人かつけ   た。織田徳川軍は、それとは知らずに追って行った。
   影武者であることが、日を経ることによって従者にもわ   かってきて、700人が最終的には40数名のお供の    方々と田野で自刃したとして正史として残された。
   そして、徳川家康公は、武田遺臣たちや地元の方々の反   徳川の感情を抑えるために、田野に景徳院を建てさせ    た。
(う)真田公に随って、勝頼公たちは、信玄公の棒道で信州の   佐久まで逃げた。そこから、土屋高久らとともに下仁田   まで逃げた。(武州街道を使ったか、南牧川か鏑川か烏   川か)下仁田からは、ほぼ確実に小早舟なり高瀬舟なり   で利根川まで出て、一気に江戸湾まで下り、房総武田=   真理谷武田?を頼り、現、南房総市まで、船で下る。四   国を目指して、富士山智蔵寺に多分世話になったようで   あるが・・。そのあとは、武田水軍に守られて香宋我部   家を頼って逃げ延びた。ここの部分で、土佐武田勝頼の   会の皆様と考えが合致できている気がするのですが、い   かがでしょうか。
(え)小山田信茂公のさらなる忠臣の事実は
   磐城平藩城主、内藤忠興の側室に、香具姫様が納まるこ   と(多分に、徳川家康公の威光があたかもしれませ     ん)、さらに武田信道(当時60歳から70歳に近い    齢)様に、香具姫様と内藤忠興さまと間にできた娘(当   時16から19歳位)を嫁がせ、現武田家の基となる武   田信興様を設けられた。ここに小山田信茂公の執念が結   実したのであります。
   そのあとは、柳沢吉保公や保科正之公、武田家遺臣の皆   様がが、大切に武田家を守り現在につながっているので   はないかと、こうちゃんは猛進妄想しているのでござい   ます。
   これにて小山田信茂公約450年間の言われない裏切り   説にたいして、こうちゃん流のロマンをご批正していた   だけたらいかがかと思います。長くなりました。
会長様、よろしくご指導くださいませ。

江戸時代から日本は海外に隠密を送り込んだ - うさぎ777

2016/01/19 (Tue) 07:00:01

江戸時代から日本は海外に隠密を送り込んだ

http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p034.html#page225

マネーロンダリングが目的だった。

( http://sky.geocities.jp/datepedia/02/update.html )

( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0103/p038.html )

( 個人的意見 )

会員登録について - 武田勝頼土佐の会

2015/09/02 (Wed) 17:22:24

会費の納入がありました。
「こんどうのりかず」さんFAXで氏名住所メール電話などをお知らせ下さい。
連絡が出来なくて困っています。
         会長 岡林


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